パリの東から

新ベーレンライター原典版のバッハ「無伴奏チェロ組曲」について
パリのど真ん中、レ・アールにある音楽図書館で「無伴奏チェロ組曲」をいろいろ借りて来た。ジャクリーヌ・デュプレ版など、意外に興味深い版が置いてあったが、全部借りてしまうと他の人が困るだろうから、ヘンレ版、マルケヴィッチ版、新ベーレンライター原典版の3つに絞った。(ちなみにマルケヴィッチ版とは指揮者イーゴリ・マルケヴィッチの弟、ディミトリー・マルケヴィッチによる個性的な版。第4版まで出たようだが、ぼくが借りたのは初版。)

さて新ベーレンライター原典版については「出版譜について」でも少し述べたのだが、単独の記事にした方がいいと思ったのである。

まずは整理しておこう。ベーレンライター社からは3種類の「無伴奏チェロ組曲」が出ているので混乱しているのだ。

1、アウグスト・ヴェンツィンガー版(1950年)

これは日本語版も出ていて、おなじみである。20世紀に出た出版譜の中で最もスタンダードなものと言って良いだろう。ぼくも出版譜の中から一つ選んで下さいと言われれば、新しい出版譜にこれと言ったものがないので、この版にせざるを得ない。

よく間違われるのだが、これは旧バッハ全集とも新バッハ全集とも関係がない、独立した版である。Amazonでも間違えている

2、新バッハ全集版(ハンス・エプシュタイン編集/1988年)

これが本当の新バッハ全集版なのだが、これは実はほとんど人目に触れることがない、気の毒な版である。新バッハ全集の一部として、音楽大学の図書館の本棚の飾りになっているはずで、個人で持っている人はめったにいないだろう。

アンナ・マグダレーナとケルナーの筆写譜に基づく第1の楽譜と、C資料とD資料に基づく第2の楽譜が一冊(大型版)に収められており、それと別冊の、4つの筆写譜のファクシミリを含んだ校訂報告(小型版)がある。参考→ベーレンライター社のページ

なお、ハンス・エプシュタイン(1911-2008)はドイツ生まれのスウェーデンの音楽学者。→ウィキペディア記事(スウェーデン語)

3、新ベーレンライター原典版(SchwemerおよびWoodfull-Harris編集/2000年)

こちらはかなり知られている。この記事で扱うのはこれである。上記の新バッハ全集の成果をもちろん取り入れてはいるだろうが、別のものである。4つの筆写譜とパリ初版譜がそれぞれ別冊になっている。それに解説と、5つの資料の違いがわかるようになっているスラーなし楽譜がセットになっている。高価ではあるが、日本でも持っている人がある程度はいるようである。

(追記

2016年11月に新バッハ全集改訂版のチェロ組曲が出版された。これもベーレンライターから出ているので、これで4冊目となる。これについてはブログ分館「バッハ 無伴奏チェロ組曲、校訂者注記」に書いたので、ご覧いただきたい。→ 新バッハ全集改訂版の「無伴奏チェロ組曲」

4つの資料を出版したのは画期的である。これはいくら称賛してもし切れない。パリ初版譜もそれ自体は興味深いものである。

問題はスラーなし楽譜である。このアイデア自身は良い。うまく作られていればそれはそれで研究の役には立つだろう(演奏には使えそうにないが)。しかし実際にはこれはあまりに問題が多く、まともな研究には役立たない。修正を加えたものをベーレンライター社に送ろうかと考えている。

まず何が問題かと言って、パリ初版譜があまりに優遇されていることである。スラーなし楽譜の前書きには、「明白なミスは除いた」と書いているにもかかわらず、パリ初版譜の明々白々なミスはうんざりするほど掲載している。それでいてアンナ・マグダレーナの重要な記譜(ミスも含めた)はしばしば無視しているのである。

このパリ初版譜はよほどあわてて出版されたのか、まったく校正されなかったようで、ミスだらけなのである。極端な例としては、第6番のプレリュードの第62から66までの5小節が丸々抜け落ちているとか、第4番のクーラントの第47小節の2拍目から次の小節の終わりまでが、なぜか第52小節の2拍目から次の小節の終わりまでと同じになっているとか、ひどい出来なのに、特にこの「明白なミス」である後者をスラーなし楽譜にわざわざ載せているのである。もうお話にならないレベルである。

どうせやるなら、ミスかどうかの判断は利用者に任せて、全ての異稿を掲載すべきだろう。編集者の方で既に取捨選択してあるのでは意味がないのである。全部の異稿を掲載したところで大して楽譜は増えないと思う。

またこの楽譜自体にミスがあるし、「臨時記号1小節1個主義」にもほどがある(お持ちの方は4ページ下から3段目の最初を見て下さい。これで3段に分かれたE、D、C資料の頭の音がC#であることがわかりますか?)。

今すぐ、改訂版を出すか回収するかのどちらかしかない。

それから何回も書いたが、パリ初版譜をE資料などと呼んで4つの筆写譜と同列に扱うのはやめるべきだ。E資料とはパリ初版譜を作る際に利用した資料の方にふさわしい名前である。

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バッハ「無伴奏チェロ組曲」まとめ


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  1. 2013/03/07(木) 13:32:48|
  2. 無伴奏チェロ組曲
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