パリの東から

バッハ「無伴奏チェロ組曲」の出版譜について
バッハ「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を自分で作るまで、この曲の出版譜がここまでひどいとは知らなかった。正直な感想を言うと、「無伴奏チェロ組曲」の出版譜は100年遅れていて、横山版でやっとスタートラインに立ったという感じなのである。

(横山版 バッハ「無伴奏チェロ組曲」(スラーなし)全曲版の無料楽譜はこちら

ヴェンツィンガー版とジャンドロン版

日本で一番普及している、ヴェンツィンガー校訂のベーレンライター原典版(1950年)にしても、拍子記号は旧バッハ全集(1879年)をほとんどそのまま受け継いで、プレリュード、アルマンドのアラ・ブレーヴェを完全に無視している。

また、全音から出版しているため日本でなじみの深いジャンドロン版(1982年)にしても、なぜか新たに楽譜を作成するという労を取らずに、ヴェンツィンガー版を拝借して多少の修正を加えるという手抜きをしているためか、ヴェンツィンガー版の拍子記号を一部は修正しているものの一部はそのまま残しているという、実に中途半端なことになっている。

(ここでは拍子記号の問題について述べているのであり、これら2つの出版譜がそれぞれ相応の価値があるものであることは言うまでもない。)

バッハ「無伴奏チェロ組曲」は、曲によって時にあまりに遅いテンポで弾かれることがあるが(まれに第1番のプレリュードのように、あまりに速いテンポで弾かれることもあるが)、いくらある程度テンポには自由が許されると言っても、例えば短調の曲を長調で弾いたりしたらそれは間違いであるのと同様、間違いだと言わざるを得ないだろう。それに拍子記号が口実を与えたりしてはならないのである。

何人かの名手のあまりにテンポの遅い演奏を聞いていると、これは「無伴奏チェロ組曲」ではなくて「無伴奏チェロ組曲」に基づいた何か別の曲だろうと思わざるを得ないのだ。

それにしてもどうしてこういうことになってしまったのだろう?

いくらケルナーやアンナ・マグダレーナの筆写譜の音符やスラーに不明な点が多いからと言ったって、拍子記号ぐらいはちゃんと写せるだろうに。旧バッハ全集なんて、現在では使われないソプラノ記号はそのまま残してあるというのに、なんで拍子記号は変えてしまうんだろう?
もう19世紀のことには目をつぶるにしても、なぜヴェンツィンガーは拍子記号を元に戻さなかったのか、またジャンドロンは中途半端にしか戻さなかったのか。

なお誤ってヴェンツィンガー版がベーレンライター新バッハ全集に属するものであるかのように紹介されていることがあるが、両者に直接のつながりはない。もちろん旧バッハ全集でもないことは言うまでもない。新バッハ全集の「無伴奏チェロ組曲」を編集したのはハンス・エプシュタイン(スウェーデンの音楽学者)である。

またややこしいのだが、下記の新ベーレンライター原典版のスラーなし楽譜も、新バッハ全集を受け継いだものではあるが、別の楽譜である。

(ベーレンライター社の「無伴奏チェロ組曲」についての詳細は、次の記事を参照して下さい。→新ベーレンライター原典版のバッハ「無伴奏チェロ組曲」について

新ベーレンライター原典版とパリ初版譜

そんなこんなで20世紀も終わり(2000年)になって、ベーレンライター社が4つの筆写譜とパリ初版譜(1824年)に、それらの違いがひと目でわかるようにしたスラーなしの楽譜をセットで出版した。
4つの筆写譜の出版は確かに画期的である。横山版もこれのおかげで出来たのであるが、しかし疑問もある。パリ初版譜自体は興味を引くものではあるが、それをスラーなし楽譜の方に他の資料と同列に扱ってその異同を掲載するとはどういうことだろう?

パリ初版譜はミスが多すぎるし、明らかに編集者ノルブランによる速度表示などは、バッハの自筆譜を類推するための資料としてはまったく価値がない。邪魔なだけなのである。他に、例えば第6番の第1ガヴォットでいくつかの低音がカッコに入れられているが、これはこのパリ初版譜で(多分難しいという理由で)ノルブランによってカットされたことを表しているに過ぎない。

「4つの写譜」でも書いたが、そもそもパリ初版譜をE資料と呼ぶのは間違っているだろう。E資料とはパリ初版譜を作る際に使った資料の方にこそ当てはまる名前である。

このスラーなし楽譜は他にも、「無視された重弦」も「無視された半小節」も書いていないし、さらには「無視されたシャープ」で述べた第6番の第1ガヴォットのシャープを無視している。この楽譜は資料による違いを明確にして、奏者が自分の判断でその中から正しいと思われるものを選ぶために作られたのだろうが、そもそも正しい情報を提供していない

はっきり言って出版された当初はともかく、現在では存在価値はない。今すぐE資料に関する記載をすべて削除し、今言ったような問題点をすべて修正して改訂版を出すか、回収するかのどちらかしかない。

ドッツァウアー版(1826年)

このパリ初版譜は翌年(1825年)早速ドイツで海賊版が作られ、この海賊版とケルナーの筆写譜を照らし合わせて作られたのがドッツァウアー版であるようである。アンナ・マグダレーナの筆写譜はどうやら参照されなかったようだが、いずれにせよたった一つの、それもC・D資料と同系統の資料を基に作られたパリ初版譜に比べてしっかりしているのは当然で、実際20世紀の半ばまでは出版されていたらしい。

余談だが、カザルスが13歳の時バルセロナの楽譜屋で偶然見つけたのが、このドッツァウアー版だという人がいるが、ある人はグリュッツマッハー版だというし、ある人はパリ初版譜だと言うし、一体どれが正しいのだろう?
(どうもグリュッツマッハー版が正解のようだが、まさかあの「アド・リブ版」の方ではなかろうな?)

ハウスマン版(1898年)

また19世紀の終わりにはロベルト・ハウスマンによる非常に興味深い版が出ている。ハウスマンはブラームスのチェロ・ソナタ第2番を作曲家自身のピアノとで初演した人であるが、この版は今日の「原典版」のはしりとも言うべきものである。いや、と言うか、今日の「原典版」とやらがこれよりましだと言えるかどうか。

ハウスマンは、オリジナル(アンナ・マグダレーナの筆写譜のことだが、この頃はまだバッハ自身の自筆譜だと思われていた。1911年に出版されたベッカー版にはバッハの妻によるものと書かれている)、ケルナーの筆写譜、ヴェストファルの筆写譜(C資料のこと)、旧バッハ全集版、それに前記のドッツァウアー版を比較検討して作成していて、そのため偏らず、バランスのとれた版に仕上がっている。
このあと(1900年)に出たクレンゲル版などはむしろ後退していると言えるだろう。

無料楽譜サイトIMSLPに掲載されているファイルは、楽譜の所持者による書き込みが多いのが残念であるが、一見の価値があるので興味ある人は是非見て下さい(こちら)

ウイーン原典版(2000年)

赤い表紙のやつである。この版は奇妙なことにC資料とD資料を底本にして作られている。別にそのこと自体は構わないのだが、それに「原典版」という名前を与えるのはいささか疑問である。C・D資料ももちろん貴重な資料であり、興味深い点も多々あるが、バッハの自筆譜から直接筆写したのではない。少なくともアンナ・マグダレーナの筆写譜を先祖に持つことには議論の余地がない。おそらくその孫写譜かひ孫写譜ぐらいだろう。

写譜を繰り返している間に、バッハではない他の人によって改変された音符が混入したと考えられる。とりわけ有名なのは第1番のプレリュード、第27小節の3・4拍目の奇妙な音形であるが、これがバッハによるものとはとても思われない。もちろん100%違うと断言はできないのであるが、これを注として別記するのならともかく、楽譜として採用してしまうというのは、「原典版」と称する楽譜としては有り得ないだろう。

D資料より。C資料もこれと同じ。
1 Prelude D 2

やはり「無伴奏チェロ組曲」の楽譜を編集する場合は、バッハの自筆譜から直接写譜したに違いないアンナ・マグダレーナかケルナーを底本とするべきだろう。

追記

最近はこの奇妙な音形はバッハ自身によるものではないかと思い始めている。おそらく仮説上のI資料が筆写された時、筆写師にバッハは草稿を渡したのだろうが、その時バッハがこんな音形もいいんじゃない、と思って書き込んだかもしれない。もちろん推測の域を出ないが。

マルセル・ビッチュ版(1984年)

珍品。おそらく日本で知っている人は一人もいないだろう(いたらご連絡を)。ぼくはパリ音楽院の図書館で知った。ビッチュ氏はパリ音楽院の教授だった人で、日本ではノエル・ギャロンとの共著「対位法」(矢代秋雄、訳)でおなじみだろう。

なぜかアンナ・マグダレーナ至上主義の楽譜で、確かに「無視されたシャープ」を掲載しているのは特筆に値するが、「無視された半小節」、「無視された重弦」を無視しているのでは、アンナ・マグダレーナ至上主義の名が泣く。

作りも変わっていて、2つ折り、横長の楽譜で綴じておらず全部バラバラ。1番のプレリュードを裏返すと2番のプレリュードになるという、わけがわからない編集(1枚弾くごとに譜面台からおろして積み重ねてゆき、組曲第1番が終わったら全部をまとめてひっくり返すと、組曲第2番が弾けるということか。トランプじゃあるまいし!)。

一体何を思ってこんな楽譜を作ったのだろう?

続く

<関連記事>

新ベーレンライター原典版のバッハ「無伴奏チェロ組曲」について
「無伴奏チェロ組曲」4つの写譜

バッハ「無伴奏チェロ組曲」まとめ


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  1. 2013/02/04(月) 12:17:45|
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