パリの東から

早すぎたフラット(無伴奏チェロ組曲第4番、プレリュード)
先ごろバッハ「無伴奏チェロ組曲」第4番、変ホ長調の楽譜が完成したが、
(横山版「無伴奏チェロ組曲」第4番(スラーなし)の楽譜はこちらから。無料です。)

第4番は多少問題の箇所がある。特にプレリュードの「早すぎたフラット」は全く信じられないことに、カザルス、トルトゥリエといった20世紀の大家から最近の名手に至るまで、実に多くのチェリストによって弾かれており、唖然とせざるを得ない。

これはアンナ・マグダレーナの凡ミスに過ぎないのである。それがなぜこんなに広まってしまったのだろう?

プレリュード第16小節、2番目の8分音符はアンナ・マグダレーナの筆写譜ではD♭になっているが、これはまったくの筆写ミスである。なぜなら同じ小節の6番目の音である1オクターブ低いD音には何も付いていないからで、しかも同じ小節といっても、第16小節の後ろ半分は次の段の五線に移っている。つまり次の段を筆写している際、ついうっかり前の第16小節にさかのぼってフラットを付け足してしまったのである。

ここで理解して欲しいのは、筆写譜はバッハの原稿の段まで忠実に写しているわけではないことである。そのため原稿と筆写譜との間で視覚的な混乱が生じて、原稿の第17小節と第18小節にあるフラットを筆写譜の第16小節にまで付けてしまったのである。

上の段、右から3つ目の8分音符が問題のD♭
4 Prelude AMB

段を変えていないケルナーには当然ながらこのフラットはない。
4 Prelude Kellner double b

この五線の段を変わった際の間違いとしては、ほかに第3番のジーグと第5番の同じくジーグにあり、どちらの場合も同じ小節を2回書いてしまっている。段が変わった時はミスをしやすいのである。

ケルナーも、第3番のサラバンドを筆写していて、バッハの楽譜のある段を丸々書き落としている。つまりこれはアンナ・マグダレーナの場合とは逆で、自分の方の五線ではなく、元のバッハの方の五線の段が変わったところでミスをしているのである(これによってバッハの自筆譜が、第13小節から17小節までが一つの段になっていたことがわかるのだが、もちろん大して役に立つことではない)。

ただ、なぜこれが「早すぎたフラット」」なのか、言葉で説明するのは少々厄介である。以下は特に関心のある方以外は読み飛ばして構わない。なので小さい文字で書く。

変ホ長調で始まった曲は、上部の音の多少の揺れはあるものの低音のE♭によって、第9小節までは変ホ長調が保たれる。ところが第10小節から低音の下降が始まり、調の行方がわからなくなる。しかし第13・14小節のF7の和音と第15小節のB♭の和音によって、変ホ長調のドミナントである変ロ長調への転調が確立される。

ところがその安定は長く続かず、第17・18小節のE♭7の和音と第19小節のA♭の和音とによって、変ホ長調のサブドミナントである変イ長調への転調が確立される。わずか4小節の間に変ホ長調のドミナントからサブドミナントへ、5度圏を一気に2段階駆け下りるのである。

この急激な転調が滑らかに行われるには、2つの調の中間の変ホ長調の和音が聞かれなければならない。言い換えるなら、5度圏を一段ずつ降りて行かなければならないのである。そこで第16小節で低音をA♭に下降させ変ホ長調のドミナント7であるB♭7の和音(の第3転回形)を聞かせ、次の変イ長調のドミナント7であるE♭7の和音とうまくつないだのである。

ところが第16小節において、D♭の音を弾いてしまうと、この和音は変イ長調の第2度音(変ロ)上の短7の和音(B♭m7)になってしまう。つまり中間の変ホ長調を経ないで、変ロ長調から変イ長調へ5度圏を一段階飛び越えてしまうことになり、転調が滑らかに行われなくなるのである。

このような和声進行はありふれたものであり、D♭がおかしいことに気づかないのなら、あまりに和声進行の基本がわかっていないと言わざるを得ない。


この曲は左手のポジションと弦がのべつ幕なしに変わるという、チェリストにとって厄介な曲なため、つい弾くことに気を取られてしまうのだろうが、ピアノなど鍵盤楽器で和音を弾いてみれば、このD♭が早過ぎるということは、上のような説明を読まなくてもすぐに分るはずである。ここは第11-12小節、第19-20小節と同様の場所であり、低音だけが経過音的に下降すればいいのである。

ぼくの知る範囲では、この間違ったD♭を書いている楽譜はアンナ・マグダレーナの他に、C資料、D資料、パリ初版譜、グリュッツマッハー、旧バッハ全集、クレンゲル、ベッカー、ハウスマン、マルキン、アレクザニアン、ガイヤール、マイナルディ、フルニエ、トルトゥリエ、シュタルケルの版である。これらの版をお持ちの方はご注意下さい。また他にもありましたらお知らせ下さい。

20世紀で多分最も使われたであろう、ヴェンツィンガーのベーレンライター原典版では、はっきりとこのD♭を否定しているのに、どうして未だにはびこっているのだろう?やはりカザルスやフルニエといった人の影響だろうか?インターネット上でいろいろ聞いてみても、著名なチェリストでちゃんとDを弾いている人はヨーヨー・マぐらいなのである!(他にウィスペルウェイ、シフ)

なお2000年に出た3つの原典版(ブライトコプフ、ヘンレ、ウィーン原典版)はすべてD♮になっており、この問題に関しては進歩している。残念なのはこれらの原典版があまり普及していないことである。

またこのフラットは100%確実にアンナ・マグダレーナによるものであるにもかかわらず、そっくりC、D資料およびパリ初版譜にも記譜されていることから、これらの資料がアンナ・マグダレーナの筆写譜の子孫であることが証明されるのである。


追記

そもそもは、組曲第4番全体についての記事のつもりだったのだが、あまりにひどい現状なので、単独の記事にすることにした。
無伴奏チェロ組曲にはどちらとも決めにくい問題点、あるいはどちらでもいいじゃないという箇所が多々あって、それらはなるほどこの人はこちらにしたかという楽しみ方もあるのだが、これに関しては 選択の余地は全くない、和声進行の基本がわかっていたらありえないもの なのである。

ところで余談だが、このフラットの少し前、第12小節の最後の音を、アーノンクール氏とウィスペルウェイ氏は共にB♭ではなくCを弾いている。このような音は4つの筆写譜はもちろん、ぼくの知る限りのどの出版譜にもない。謎である。もしもそのような楽譜を見つけたらぜひとも知らせて下さい。

おそらくアーノンクール氏の単なる気まぐれを、ウィスペルウェイ氏が本気にしただけだと思われるが。

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  1. 2013/01/02(水) 22:53:45|
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