パリの東から

無視されたシャープ(無伴奏チェロ組曲第6番、ガヴォット)
まさかまた「無視された」シリーズを書くとは思わなかった(笑)。

前の記事でバッハ無伴奏チェロ組曲第6番のト長調版を作ったことを書いたが、アンナ・マグダレーナ・バッハの筆写譜を見ていて、第1ガヴォットの第7小節の1拍目のバス音(E、ト長調版ではA)に、見慣れぬシャープがあることに気づいた。やや小振りではあるが、紛れもなくシャープの形をしている。実際にチェロで弾いてみるとなかなか魅力的ではないか。

アンナ・マグダレーナ(楽譜はアルト記号で書かれている。なお最後の和音の一番上の音EはC#のミス)
6 gavotte AMB a

「無視された半小節」のロストロポーヴィチのように、このシャープを付けて弾いているチェリストはいるかもしれないが、楽譜ではまだお目にかかったことがない。

ケルナーの筆写譜およびC資料、D資料(ともに18世紀後半の無名の筆写譜)ではこの小節は音形も違っており、ケルナーのは1段目の端が見にくいが、第7小節2拍目の頭(3つ目の四分音符)の八分音符がC#ではなくDになっている点がC、D資料と異なるが、いずれにせよ何回も言っているように、バッハはこの部分を後に改訂したのであり、ケルナーは改訂する前のバッハの草稿を筆写し、アンナ・マグダレーナは改訂したのちの清書楽譜を筆写したのである。

ケルナー(2段に分かれているものを合成)
6 gavotte Kellner 3

C資料(D資料も同じ)
6 gavotte C

ところが旧バッハ全集が、どこにもないアンナ・マグダレーナからシャープを取り去った音形を捏造して以来、のちの出版譜のほとんどが、それをそのまま採用してしまうという嘆かわしいことになってしまった。そのためこの部分がやや稚拙な感じになってしまったのである。

旧バッハ全集(1879年)による捏造
6 Gavotte BA

この捏造はヴェンツィンガー版などを経て、何と2000年のヘンレ版まで受け継がれているのだから恐ろしい限りである。最近の版や演奏では、C、D資料の音形を用いることも多くなって来た。やはりこの捏造版に何か違和感を持つ人が多いからであろう。しかしアンナ・マグダレーナの音形を用いた楽譜は横山版のみである。

ケルナーの音形、つまりバッハの初期の音形では、バスの音が四分音符でE-D-Eと刺繍音で修飾されており、それはそれなりに優雅である。しかしバッハは気に入らず、刺繍音は削って休符とし、バス音をF#-E#-E♮と、半音階進行させることにしたのである。バッハがあとの方のE音にナチュラルを書いてくれていれば、シャープがミスであると誤解されることもなかったのだろうが、それにしてもこんなところにアンナ・マグダレーナがミスでシャープを書くわけがないではないか。しかもそれが優雅で魅力的となるとバッハ自身がシャープを書いたことは明白である。

余談だが、C、D資料がケルナーとアンナ・マグダレーナの中間的な音形を書いていることは興味深い。おそらくケルナーと同様にバッハの草稿から写譜したと考えられる仮説上のI資料からの影響だと思われる。

ところで、もしもシャープを書いている出版譜、あるいはシャープを付けて弾いている演奏があればお知らせ下さい。

それにしてもこんな素敵なシャープが、この曲が生まれて300年近くも経つのに、すべての編集者に無視されて来たとは、腹が立つやら悲しいやら。この記事を読まれた方はすぐに楽器を手に取ってお試し下さい。

追記1
Naxosから出しているユリウス・ベルガーというチェリストがこのシャープを弾いていました。素晴らしい!
http://ml.naxos.jp/album/WER4041-2

追記2
ベーレンライターの新原典版の広告を見ていたら、たまたまこの部分が見本として掲載されていたのだが、信じられないことにこのシャープが無視されているのである。この楽譜は4つの筆写譜とパリ初版譜との相違がひと目でわかるようになっているスラーなし楽譜なのだが、わざわざA資料(アンナ・マグダレーナの筆写譜)と注を書いておきながら、このシャープを無視しているのである!!!!こうなって来ると、白日夢でも見ているのかと思ってしまう。
http://www.sheetmusicplus.com/title/6-Suites-For-Cello-Solo/2451524


さて第6番ト長調版を改訂していて、また新たなシャープを発見した。今度は「無視された」というよりは「知られざるシャープ」とでも言おうか。今度は上の場合とは逆で、アンナ・マグダレーナにはないが、ケルナーの方にあるのである。それも上のガヴォットの直前、サラバンドの終わりにである。

サラバンドの終わりから2小節目(第31小節)の最初の低音はGではなくG#(ト長調版ではC#)である。

ケルナー(一番左の小節はアルト記号)
6 Sarabande Kellner 80

アンナ・マグダレーナにこのシャープはない
6 Sarabande AMB 1

この方が和音としても美しいし(Gだと上の4分音符F#との長7度、ト長調版ではC-Bの長7度、がやや汚く感じられる)、その前の小節からの低音の動きがG-G#-Aと半音階となって自然である。さらにその前、第28-29小節の低音のA-A#-Bという半音階の動きと呼応することにもなる。

6 Sarabande chromatic

おそらくアンナ・マグダレーナはシャープを書き落としたのだろう。ちょうどここでアルト記号からヘ音記号に変わっており、当時の習慣では音部記号が変わった時も調号を付けていたので、それと紛らわしかったのだろう。

この部分からすべての休符と先取音(anticipation)を取り除いた形をみてみよう。1小節と1拍に引き伸ばされた低音のGが大変に不自然なのが容易に分かると思う。

6 Sarabande reduction

追記

このサラバンドは美しさ、清らかさにおいて、この6つのチェロ組曲全曲の頂点だと思う。それだけではなく、バッハの書いたすべての音楽の中でも最も美しい曲の一つと言っていいだろう。その締めくくりにおいて、このシャープは何と暖かく魅力的な輝きを放っていることか。

画竜点睛という言葉があるが、このシャープは正に画竜点睛で、これを欠いてはせっかくのこの素晴らしいサラバンドに命が吹き込まれないのである。ぜひとも弾いてみて下さい。


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  1. 2012/11/29(木) 01:57:59|
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