パリの東から

無視されたテンポ(ショスタコーヴィチ交響曲第5番)
ショスタコーヴィチの交響曲第5番第4楽章のテンポは、ウィキペディア日本語版にその項目があるぐらい、指揮者によってテンポがまちまちである。何よりも324小節からのコーダでは速い演奏と遅い演奏との違いがおよそ倍にも達するのである。

私の持っている古い全音のスコアではここは4分音符188となっており、それで何も問題がないと思うのだが、およそその倍もの遅いテンポの演奏があり、最近はどちらかと言うとその方が主流になりつつあるようだ。これはムラヴィンスキーに始まるようで、ウィキペディアによると、彼は初演のスコアに4分音符88と書き入れたそうだ。

確かに機械式メトロノームには188と言う数字がないが、だからと言って他に大した理由もなく88の誤植だろうなんて、冗談にも程がある。現在のような電子メトロノームのまだなかった時代でも、時にどの目盛の数字でも満足できず、その間の数字を書く事もあったのである。この場合なら、その前後の184でも192でも納得が行かなかったのだろう。それに188は184と192のちょうど真ん中であり、185とか187ならともかく、作曲者がちゃんと考えて書いたことは明らかだろう。

さらにスコアを素直に見る限り、ここで4分音符88というとてつもなく遅いテンポはどうしても思い浮かんで来ない。その前の流れから見ても、247小節からやや押さえたテンポでたまりにたまって来たエネルギーがここで一気に解放されなければならないところで、それは4分音符88などというほとんど止まりそうなテンポでは決して実現されることはなく、聞く人をただ欲求不満に陥れるだけである。

また全音以外のスコアでここが8分音符188あるいは184になっているものもあるが、こんなところでテンポ表示にわざわざ8分音符を書く作曲家がどこにいるだろうか?ナンセンスにも程があるというものだ。

小クラリネット(Esクラ)のパートが一つのヒントになるだろう(譜例)。木管楽器、ピアノ、弦楽器が皆8分音符でAの音を連打している中で、唯一4分音符を吹いている。これは作曲者が、この音(高いF♯、小クラリネットはE♭の移調楽器なので実際に鳴る音はA)を8分音符で連続して吹くのは小クラリネットにはきついと考えて4分音符を書いたのだ。これが4分音符88あるいは8分音符188なら4分音符で書く必要がない。

(譜例、筆者作成、木管楽器以外は省略)

ショスタコーヴィッチ交響曲第5番

また遅いテンポだと譜例1小節目の3拍目の4分音符の必然性が感じられない。8分音符のままでいいではないかと思えるのだ。そしてピッコロも中断する意味がないように思える。そのまま他の楽器と同様、吹き続ければいいではないか。ここはコントラファゴット、コントラバスを除くすべての木管、弦、そしてピアノがユニソンあるいはオクターヴで鳴らしているのだから、適当なところで休符を入れて息継ぎすればいいのだ。それにこのピッコロの休止の長さは、4分音符188のテンポの場合にぴったりである。8分音符188の場合では不自然に長い。


この部分に関して、ムラヴィンスキーが「歓喜」あるいは「勝利」の表現としては4分音符188ではあまりにもあっさりしていると思って遅くしたのだ、というのをどこかで読んだことがある。どうもぼくにはそれが真相のような気がしてならない。ムラヴィンスキーがショスタコーヴィチより3歳年上だということを考えてみても、ムラヴィンスキーが強引に自分の解釈を押し通した可能性はあると思う。



そのほかの点を見てみよう。

冒頭、4分音符88だがやたらと早い演奏が多い。ここは多分威圧感を出すべきところで、あまり速いテンポはふさわしくないと思う。

冒頭を比較的ゆっくり始めても、8小節から11小節にかけてのアッチェレランド・ポコ・ア・ポコでやたらめったら速くする人がいる。11小節は4分音符104で、機械式メトロノームの数字ではわずか4目盛りの違いで、実際にはアッチェレランドが感じられないぐらいなのだ。

作曲者はそれから108、120、126、132、アッチェレランドと細かく指示して徐々にテンポを上げて行き、ついにトランペット・ソロによる第2テーマ(81小節)で2分音符72(4分音符144)に達する。
ここはまあ誰が振っても大体このテンポに近いが、

その次の112小節(2分音符92)でこれまたやたら遅くする人がいる。ここはその前より速いのだ。92は72より大きい数字ではないのだろうか? ティンパニが減5度の重音で8分音符を連打するという鬼気迫るこの場所をのんびり演奏してはいけない。

247小節は4分音符100 - 108とあり、これは100から始めて徐々に108ぐらいまでに持っていくことを意味するだろう。ここの部分も時々速すぎるテンポを見かける。

それとテンポではないが、154小節において、第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのBフラットの2分音符をBナチュラルに「修正」して弾くことが常套化している。ここはヴィオラとクラリネットのBフラットとが半音でぶつかってこそ、その2小節後のEGの3度の澄んだ響きが生きてくる。ただショスタコーヴィチがここに用心のためのフラットを書かなかったのが惜しまれる。


コーダのあまりに遅いテンポはムラヴィンスキーのただの気まぐれに過ぎない。いい加減に終わらせて欲しいものだ。
その他の点についても、指揮者さんにはよく数字を見てほしいと思う。

追記

コーダのテンポについて、これに非常によく似た例を思い出した。

ベートーヴェン交響曲第9番第4楽章、調も同じニ長調。この曲の終わりPrestissimoの直前、4分の3拍子Maestosoという4小節(916-919小節)がある。

(譜例、筆者作成)

ベートーヴェン交響曲9番

ここには4分音符60という表示があるが、これをほぼ倍の遅さで演奏することが蔓延していた。さすがに最近はこれを本来のテンポで演奏することも増えてきたが、20世紀においてはほとんどの演奏がそうだったと言ってよいだろう。

一体このような間違ったテンポを誰が始めたのかはわからないが、少なくともワインガルトナーが「ある指揮者の提言」でこの悪しき習慣を定着させてしまったと言って間違いない。彼は「正しいメトロノームの指示としては、おそらく8分音符60位であり、スコアに示されている4分音符60という指示は決してこの部分には当てはまらないのである。」などと言って、ベートーヴェンの指示を実にあっさりと無視してしまっているのである。

ショスタコーヴィチの5番のテンポを考える時に、このベートーヴェンのMaestosoもあわせて考えてみるといいと思う。

にほんブログ村 音楽ブログ 楽譜・音符へ
スポンサーサイト

テーマ:クラシック - ジャンル:音楽

  1. 2010/10/13(水) 16:15:37|
  2. 楽譜
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:2

コメント
こちらも素晴らしい提言
ベートーヴェンの速度指示や強弱の指示についてはこれまで気にはなってきました。でもここまで過去の演奏にさかのぼって、どこでどういう間違いが起こりえたか、という視点までは持っていませんでした。素晴らしいですね。実は私のブロともさんのひとりが、最近やはり第九のテンポについて書かれてましたが、この記事をぜひご紹介してあげたいです。

ところで、なぜか横山さんのブログへの「拍手」ができません。パソコンの奥の方で「カチッ」と音がするだけで、拒まれてしまうんです。私としてはいろんな記事に拍手を入れたいんですが…

横山さんはいまフランス・パリにお住まいなんですか?
あつかましいお願いですが、もしよろしかったらブロともになっていただけないでしょうか?
私の周りの音楽仲間たちにもぜひご紹介したいので…
  1. 2011/08/29(月) 23:37:06 |
  2. URL |
  3. 第一楽章 #-
  4. [ 編集]
第一楽章さま
「拍手」の設定を「受け付けない」にしていました。すみませんでした。
それに一ヶ月間以上記事を書かないでいると、コメントがブログに表示されないされないらしく、コメントに気づくのが遅くなってしまいました。
ブロとももちろん歓迎です。
  1. 2011/09/03(土) 20:57:38 |
  2. URL |
  3. Shin-Itchiro #-
  4. [ 編集]

管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバックURLはこちら
http://estparis.blog108.fc2.com/tb.php/53-e15391c1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


<<ソルフェージュについて | ホーム | 無視されたフォルテ(ベートーヴェン交響曲第1番)>>