パリの東から

無視された半小節(バッハ無伴奏チェロ組曲第1番、ジグ)
「楽譜書庫」の方にバッハの無伴奏チェロ組曲第1番の「ジグ」の楽譜を作って掲載しました。

(追記、第1番全曲の「スラーなし」楽譜も作りました。どうぞご利用下さい。)

なぜ「ジグ」かというと、この「ジグ」には、これまでのこの組曲の楽譜編集者全員から無視された「半小節」があるからです。

無伴奏チェロ組曲のバッハによる自筆譜は発見されておらず、アンナ・マグダレーナ・バッハ(バッハの2番目の妻)による筆写譜がこの曲の第一の資料なのですが、それによると8分の6拍子のこの曲の第31小節と第32小節の間に、8分音符3つだけの小節が挟まっているのです。

下の図、2段目の3小節目です。

ジグ


実際に弾いてみるとわかりますが、この半小節を入れると曲が充実しますし、その後にこの半小節を飛ばして弾くと、物足りなく感じられます。

なぜこのようなことになるのか、少し詳しく説明しますと、ずっと4小節単位で進んでいたこの曲が第25小節(下の図、7段目)からは3小節進んだところで突然断ち切られてしまいます。そのため余ったエネルギーが拍子の混乱を引き起こすのです。

1 Gigue Explication


加えて第29小節と第30小節(下から2段目)のそれぞれの2拍目の頭の8分音符が次の8分音符へのアポジャトゥーラ(倚音)になっており、それがアクセントとなるため、だんだんと裏拍(2番目の付点4分音符)が表拍(1番目の付点4分音符)よりも強く感じられるようになり、ついに第30小節の裏拍が表拍のように感じられ、第31小節の表拍が裏拍のように感じられるようになります。

そして最後の楽節は第31小節の裏拍から始まりますが、実際には表拍として感じられます。そのためこの「余分な」半小節を裏拍として挟み込む必要が生じたというわけです。

図を見れば、3小節で断ち切られたフレーズがだんだんと回復しようとして、最後に4小節にもどる様がよくわかると思います。

さらに付け加えると、なぜこの第1番のジグだけ最後の音にフェルマータがあるかの説明にもなります(ケルナーやアンナ・マグダレーナの筆写譜でご確認下さい。くれぐれも出版譜で確認したりしないように。開いた口がふさがらないと言うか、多くの出版譜がこのフェルマータを書いていないのです。一体どこまでこの組曲を愚弄するのでしょうか?)。

最初バッハは何らかの物足りなさを感じ、フェルマータで最後の音を伸ばすことによって物足りなさを補おうとしたのです(ケルナーの筆写譜にフェルマータがあることから、これが最初から書かれていたことがわかります)。のちにバッハは半小節を書き加えることによって解決をはかりましたが、痕跡としてこのフェルマータが残ってしまったというわけです。

それにしてもなぜこの半小節が無視され続けて来たのかよくわかりません。たしかにアンナ・マグダレーナ以外の人が残した筆写譜にはこの半小節はありません。またアンナ・マグダレーナの筆写譜には、ほかに疑問な点もありますし、特にスラーは明確でないことが多いのですが、この半小節は上に述べたようにはっきりとその存在の意味が有り、これが間違いである可能性はありません。

おそらく単純に、半分しかないから書き間違いだと考えたのでしょうが、この曲をすべて8分の3拍子に書き換えたら、おそらく誰も間違いだとは思わないでしょう。そのぐらいの想像力は働かせてほしいものです。

多分バッハは後になって(チェロ組曲全6曲を書き上げた後に)この半小節を書き加えたのだと思います。その時、五線の上だか下だかに小さい五線を書いて、そこにこの3つの8分音符を書き入れたのでしょう。それをアンナ・マグダレーナが写譜したとしたら、当然このような半小節が挟まった形になるわけです。

図で示してみます(アンナ・マグダレーナの筆写譜を加工して作りました)。

バッハの初稿(想像図)
ジグ初稿

初稿への加筆(想像図)
ジグ改訂稿

アンナ・マグダレーナによる筆写(実物)
ジグ筆写譜

ケルナーの筆写譜にこの半小節がないのは、バッハがこの半小節を書き加える前の楽譜を写譜したからでしょう。


この半小節を含めて演奏しているロストロポーヴィッチ氏の映像です。



追記

最近の版(ヘンレ、ウイーン原典、ブライトコプフ等)について調べてみましたが、ことごとくこの半小節を無視し続けていました。注釈では何の根拠もなしに、間違いだと決め付けているのです!!! 

もしこれがバッハの自筆譜だとしても校訂者たちは間違いと決め付けるのでしょうか?

<関連記事>

バッハ「無伴奏チェロ組曲」まとめ


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テーマ:楽器 - ジャンル:音楽

  1. 2010/08/23(月) 15:17:06|
  2. 無伴奏チェロ組曲
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

コメント
謎が解けました
はじめまして。私も2つほどこの半小節を演奏した例に出会っていました。なんで半小節多く演奏しているのか理由がわからなかったのですが,謎が解けました。有り難うございました。(私のブログでも紹介させていただきました)
  1. 2010/09/10(金) 01:28:49 |
  2. URL |
  3. T.S. #-
  4. [ 編集]
T.S. 様
当ブログに初のコメント、それにこの記事をブログで紹介して下さってありがとうございます。

ロストロポーヴィッチ氏がビデオでこの半小節を演奏しているのは見ましたが、他にもいらっしゃるんですね。心強い限りです。
  1. 2010/09/11(土) 20:17:05 |
  2. URL |
  3. 横山真一郎 #EBUSheBA
  4. [ 編集]
今晩は。
大変難しい問題です。何故かというと、当然拍がずれてくるからです。ほかにこうした例はないはず。ただ単に書き加えるだけでは解決しないはず。

そして、BACHの場合、「付け加える」場合、5線の下に挿入のマークが入っていたはず。KANTATEの場合などで見かける訂正・加筆のやりかたです。それがなく、行間に書かれていただけでは異稿を示したかもしれません。

本来であれば、新バッハ全集の校訂報告を先ずは見るべきだと思います。先ずは私見まで。
  1. 2011/09/29(木) 21:19:24 |
  2. URL |
  3. #dDm6s.8Q
  4. [ 編集]
#dDm6s.8Q様(できれば名前をお願いします)

この曲は24小節目までずっと4小節単位で出来ていますが、25小節目からは、9小節目からと同型の旋律で、9小節目からが4小節のグループになっているのに対し、ここは突然断ち切られたように3小節で終わっています。

そのためエネルギーが余ってしまったとでも言いましょうか、その後が不安定な状態になって、1拍目(前の3つの8分音符)と2拍目(後の3つの8分音符)のどちらが強拍かわからなくなっています。そして既に30小節目の後半(C#-D-F#)は強拍、31小節目の前半(B‐GA‐B)は弱拍に感じられるようになって、ここで拍のズレが生じてしまっています。そのため半小節を挟み込む必要が生じたわけです。

ロストロポーヴィッチ氏の演奏を聞けばわかると思いますが、目に奇異に映るだけであって、耳には何も不自然さは感じられません。

小節にこだわっていてはこの部分は理解できません。バッハもはじめは小節にこだわってきちんと収めようとしましたが、後になって小節をかなぐり捨てて音楽の自然に従うことにしたのです。

ご理解いただけましたでしょうか?
  1. 2011/10/05(水) 05:51:08 |
  2. URL |
  3. Shin-Itchiro #-
  4. [ 編集]
こんにちは。わたしはびよら弾きで最近この曲に取り組んでいます。
わたしの使っている楽譜は当然というか何というかこの半小節は入っていません。で、この楽譜をわたしはこう解釈しています。
25小節から28小節の第一音まではエネルギーを高める準備をしているのではないか。バッハはこの曲の終わりのエネルギー量を示すのに、29小節の一拍目のG、30小節の一拍目のA、31小節の一拍目のH、ここから注目する拍が変わって31小節の最後の拍のC、32小節(ということにしておきます)の三泊目のD、六拍目のE を使っているのではないか。この音の持っていき方を使うことで自然に音のエネルギー量は高まっていきます。終わり三つがリズムが違うこと、注目させる拍が弱拍であることはエネルギーが高まりすぎて不安定になっていることを示しているのではないか。これは裏拍を使っているからこその表現だと思うのです。そこから33小節の一拍目のDでドンッとエネルギーが落ち、ボールが弾んでコロコロと転がって止まるように曲が終わる。そう思っています。
そう解釈する身には半小節足して E を二回繰り返すのはなかなか受け入れられないです。
  1. 2015/06/29(月) 14:36:09 |
  2. URL |
  3. 佳月 #lNI2q/ko
  4. [ 編集]
佳月様
コメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、その上昇する音階進行は確かに大切です。半小節のない、つまり通常の演奏に慣れた耳には、その音階進行がこの半小節でやや停滞してしまう感じがするかもしれません。ですがバッハはそれでも曲が充実して終わることのほうを選んだというのが私の考えです。
ただバッハも最初はこの半小節を書かなかったのだし、これはいわば初版と改訂版の違いで、演奏者によって選択の自由があるとは思います。

ただこの半小節にすっかりなじんでしまった私には、半小節のない演奏を聞くと、あまりにも曲が早く唐突に終わってしまう感じがするのは事実です。
  1. 2015/07/10(金) 02:15:44 |
  2. URL |
  3. Shin-Itchiro #m.2.LkcQ
  4. [ 編集]
初めて書き込みます。チェロを弾く者です。
私の考えでは、31小節のdisはeへのアポジャトゥーラと見ます。ぶつかるのは6拍目のcですね。この小節からは素直に上がh-c-d-eと進行する下にg-e-fis-gと寄り添う6度の動きとし、下の音に前進するエネルギーを与えるために前打音を入れたと解釈します。
つまり、32小節4拍目の音に6拍目の音を重ねればわかると思いますが、ここを含めて三回、拍の頭(1拍目と4拍目)が不協和になりますし、次の拍で解決します。
しかし半小節を入れたらこの不協和から協和への前打音のパターンが崩れ、拍の頭が協和であとの二つが不協和になります。また、h-c-c-d-eという進行はいかにも不自然です。
更に、バッハがどうしても追加したかったなら、4小節なり2小節追加するはずだと思います。
半小節追加だとしても、私なら32小節と33の間にg-a-fisとドミナント(かサブかはっきりしない音)を重ねます。
それゆえ、マグダレーナが変わる音と変わらない音とを見間違え、小節線を引いてしまったと私は見ます。
  1. 2015/11/25(水) 05:57:57 |
  2. URL |
  3. きききた #-
  4. [ 編集]
きききた様、コメントありがとうございます。
いずれまた記事(ただしブログ分館の)
http://bachmubansou.blogspot.fr/2015/05/blog-post.html
に追加しなければならないと思いますが、ぼくはさまざまな観点から、バッハがこの半小節を書き加えた可能性はきわめて高いと考えています。

音楽的な観点について追加しますと、23小節後半と24小節前半で同じ音形が繰り返されていますが、ここですでに強拍と弱拍の関係に狂いが生じています。つまり23小節と24小節前半とが合わさって、8分の9拍子のように感じられるのです。このことも半小節の必要性の遠因となっているのです。

拍子の観点から言いますと、「無伴奏チェロ組曲」のジーグには8分の3拍子(2,3,5番)、8分の6拍子(1,6番)、8分の12拍子(4番)とがありますが、これには音楽的な意味合いは特になく、主にテンポを表していると考えて間違いないでしょう。すなわち、8分の3拍子が一番遅く、8分の12拍子が一番速いのです。そして同じ8分の6拍子でも、6番の方が16分音符が多い分だけ遅いテンポになると言えるでしょう。つまり1番のジーグが8分の6拍子であることに音楽的な意味は無く、これを8分の3拍子で書いてもかまわないのです。すると常に2小節単位である必要もなくなり、半小節は立派な1小節となり、誰も疑問に思わなくなるでしょう。見た目に惑わされているだけなのです。初めて「無伴奏チェロ組曲」を聴く人が上のロストロポーヴィチの演奏を聞いて疑問に思うことはまずないでしょう。
きききたさんが「h-c-c-d-eという進行はいかにも不自然です」と書かれていることもこのことと関係していますが、ここにhを含めるのは間違いで、新しいフレーズはcから始まっているのです。

最後に写譜上の観点から言いますと、この半小節がミスである可能性はまずないのです。一つはアンナ・マグダレーナのこのようなミスが少なくとも「無伴奏チェロ組曲」には他に無いことです。似たようなものはあり、いずれ写真付きで解説するつもりですが、例えば第6番のプレリュードの第5小節で4拍目を書き落としています。ただし後で修正していますが。しかしこれは「書き足りない」例であり、1番のジーグのように「書き足されている」のではありません。また書き足された例としては3番のジーグ及び5番のジーグにあり、どちらも同じ小節を2度書いていますが、これは筆写譜側で段が変わっている時に起こっており、段の途中にある1番のジーグの半小節とは違います。
それに加えてぼくが解説したように、強拍弱拍の観点からこの半小節が説明可能なのですから、バッハが半小節を書き加えた可能性はきわめて高いのです。
  1. 2015/11/26(木) 19:37:12 |
  2. URL |
  3. Shin-Itchiro #m.2.LkcQ
  4. [ 編集]

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